私がミュージカルの脚本を書き始めたのは実はだいぶ最近のことで、5年前ほどから。
それまで、主に詩や短編小説を書いていて、対外的に発表していたのは詩のみ。
その後、コピーライティングやウェブライティングの方向に行ったので、物語を描くという世界からは少し離れていました。
それでもどこか。「書ける」と思っている自分がいました。
子供の頃から文章を書くのは得意だったし、それなりに賞なども多く頂きました。
だから、「書ける」と思ってしまっていたんですよね。
当たり前ですが、書けるかどうかなんてやってみて初めてわかることです。詩や小説と脚本が違うことは、頭で理解していても実際にやってみないと見えてこないことがたくさんです。ましてや、ミュージカルの脚本となればなおのこと。
出来上がった作品を見てああだこうだということはできるのですが、自分で0-1を生み出すことの難しさ。そして、やっと生み出した1を脚本という形にしていくことの難しさを、この5年で思い知らされました。
小説や詩
小説や詩は「感情」を書きますが、それに至る心の動き、外部的な要因、なぜ?どうして?を割とはっきりと書きます。そして、「何を感じたか」をぼかすようなところがあります。
「わかるでしょう?」
と読み手に手渡すような部分。
よく、現代国語などで、「作者の意図は何でしょう?」と出題される部分ですよね。
そこが小説の面白いところです。また、一つの出来事、単語を、いかに綺麗に独特の言い回しで表現するかによって世界観を演出します。
そうなんです。小説って、作者が世界を演出するんですよね。
詩なんてもっとぼやかして対外的要因も何もかもすっぽかして心象風景だけを綴って、読み手に様々想像させるような部分があるから、それはもう演出効果は抜群。作者は書き手と言うよりは演出家に近いんじゃなかろうかと思うくらい。
脚本
でも脚本は違います。
脚本は脚本であって演出家は別にいます。
文脈や言葉選びから醸し出す作者の世界観は、乱暴に行ってしまえば「邪魔」です。
そこに固執してしまうと、演出家が何を演出すればいいのか、役者が何を表現すればいいのかがボケてしまいます。
もちろん、私の作品なのだから、私の世界観は大事。どうしても譲れない信念があるならそこは捨て得るべきではないのです。
けれど、それが作品がミュージカルとして昇華することを邪魔しているのならば、それはミュージカルで表現することではないのだということ。
最近感じていることは、演出家の創造力を掻き立てるようなモノを書かなくては、作品にならないということです。
演出家は一番最初に作品を見るお客様です。その人の想像力を掻き立てることができないお話ならば、それは駄作。観客の心を動かすことなんてとてもじゃないけどできません。
幸いにも、私には脚本を書く途中途中で、たくさんのアドバイスをくれる人たちが周りにいてくれるので、独りよがりの作品にならずに済んでいるのかな、と思います。
もっと私自身が研鑽を積んで、どんな題材であってもミュージカルの世界に昇華出来る様になれば、書ける世界やジャンルも広がっていくことだと思います。
それまで、団員が技術を磨いていくのと同じくらい、いえ、彼らに負けないくらいに、自分のスキルを磨いていかなければならないな、と感じています。